「角大師」という言葉を検索すると
「角大師 危ない」
という検索結果が表示されます。
護符となって人々を救ってくれる角大師が、なぜ危ないと言われるのでしょうか?
今回は角大師が危ないと言われる理由やご利益などをご紹介します。
角大師とは
角大師とはアマビエと並んで疫病除けの護符として代表的なものです。
角大師は、頭に2本の角が生えた夜叉の姿をしています。
あばら骨が見えるほどやせ衰え、皮と骨ばかり。
まるで鬼のような姿の角大師ですが、このモデルとなっているのは「鬼」ではなく「人間」です。
角大師のモデルとなっているのは「元三大師」や「慈恵大師」、「豆大師」とも呼ばれる天台宗の僧侶 良源(りょうげん)さん。
良源は、延喜12年(西暦912年)に近江国浅井郡虎姫(現在の滋賀県長浜市)に生まれ、12歳のときに比叡山に入山。
良源は比叡山を開いた最澄の直系の弟子ではありませんが、優れた才能を持っており、南都六宗の僧侶たちとの論争でも相手を論破し、比叡山においてメキメキと頭角を現していきました。
そしてついに康保3年(966年)、良源は天台宗のトップである天台座主に就任しました。
しかし、良源の就任直後、比叡山に事件が起こります。
良源が第18代天台座主に就任したのは康保3年(966年)8月27日ですが、それから間もない10月28日に比叡山で大火災が発生。
惣持院、四王院、延命院、講堂といった30もの堂宇が消失しました。
このとき良源は村上天皇の外戚であった藤原師輔(もろすけ)の力を得て、消失した堂宇の再建に着手。
さらに現在と比較するとかなり小さかった比叡山の中心、根本中堂を大規模なものに建て替えました。
このように良源は天台座主として比叡山の復興に力を尽くし、比叡山「中興の祖」と言われています。
角大師の護符の基本情報
ご利益:疫病退散、願望成就
出現時期:10世紀(平安時代)~現代
使い方:玄関などに貼る
特 徴:天台座主として比叡山復興に尽くし、その功績から「中興の祖」と呼ばれる良源(元三大師)が疫病をもたらした厄神を瞑想により弾き出したのち、瞑想姿を弟子たちに写し取らせ、摺って護符とした。
イケメンだった角大師
角大師のような鬼の姿で描かれる良源さんですが、若い頃は大変な美形で、現代風に言えば「美坊主」だったそうです。
そんな良源さんのイケメンっぷりを伝えるエピソードをご紹介します。
良源が第18代天台座主の地位にあった平安時代中期。
世の中の風紀はとても乱れていました。
仏門に下っていても女性と関係したり、稚児を抱え込んでいたりする者もおり、天台座主として良源は頭を抱えていました。
しかもイケメンな良源は、宮中に出向けば女官たちに言い寄られる始末。
「この乱れた風紀をどうにかしなければ・・・」
そんな使命感を感じた良源は、驚きの行動に出るのです。
良源はある日、自分に言い寄ってくる女官たちを集めました。
イケメンの良源に声を掛けられて、女官たちはさぞかし心が弾んだことでしょう。
しかし、良源は何やら呪文を唱え始めます。
固唾をのんで女官たちが見守っていると、あれよという間に
良源は鬼の姿に変化してしまったのです!
鬼に変わった良源を見て、恐れおののく女官たち。
このとき良源が唱えたのは
「首楞厳経(しゅりょうごんぎょう)」
という魔を退けると言われる呪文でした。
鬼になった良源を見て、言い寄っていた女官たちも恐ろしくなり、そそくさと去ったそうです。
このとき鬼になった良源の姿を描いたものが、角大師であるとも言われています。
女性を追い払うため鬼になり、その姿が疫病除けとして広く知られるようになった良源。
言い寄ってくる女性たちは、良源にとって疫病よりもやっかいな存在だったのかもしれません。
これと似た話に
「宮中の女性の目から逃れるため、鬼の面をかぶって参内した」
というものもあります。
こちらも併せてご紹介しましょう。
ある年の春のこと。
御所に参内した良源は庭園の桜の美しさに惹かれて、しばらく散策していました。
すると女官らが花見の酒宴をしているところに出くわし、無理やりという感じで引っ張りこまれます。
しばらくの間、座興に調子を合わせていましたが
「今日は、ほんとうによいお花見をさせてもらいました。そのお礼に、私も一つ、一番得意とする百面相をお目にかけます」
と、みなに合図があるまで顔を伏せるように言いました。
しばらくして
「はい」
と呼び声があり、女官らが顔を上げると、そこには恐ろしい二本角の鬼の姿が。
腰を抜かした女官らは、恐怖のあまりまた顔を伏せます。
音一つしないので、おそるおそる顔を上げると、さっきまで鬼がいた場所には誰もいず、良源の姿も消えていたそうです。
そのお面は、良源が創建した京都の蘆山寺(ろざんじ)に保管され、2月3日の節分の日に一般公開されています。
ちなみに「王都妖奇譚」という漫画に登場する良源さんも、普段は鬼の面を被っており、かなりのイケメンとして描かれています。
イケメンの安倍晴明が主人公で、宝塚歌劇で上演すれば人気がでそうです♪
角大師、誕生の由来
イケメンな美坊主で女官にもモテモテだった良源(元三大師)さん。
そんな良源さんはなぜ角大師となり、疫病退散の護符になったのでしょうか?
これには不思議な伝説が関わっています。
良源はが72歳で亡くなる、その前年のこと。
一人居室にいて瞑想をしていると、そこに怪しい者が現れました。
「お前は何者か?」
と良源が尋ねると、その相手は
「私は疫病を司る厄神であります。
いま疫病が天下に流行しております。
あなたもまた、これに罹らなければなりませんので、お身体を侵しに参りました」
と言ってきます。
良源は自分が疫病に罹るのはやむを得まいと思い
「これについてみよ」
と言って、左手の小指を差し出しました。
差し出された小指に厄神が触れた途端、
良源の全身が発熱し、良源は耐え難い苦痛を感じました。
そのとき心を落ち着かせ、天台宗に伝わる瞑想法「円融三諦(えんにゅうさんたい)」を実践し、指を弾くと、厄神は弾き出され、逃げ出してしまいました。
すると不思議なことに良源の苦痛は無くなっていました。
この出来事の翌朝。
良源は弟子たちを集め、鏡を持ってこさせました。
「自分の姿を鏡に映すから、それを書き留めよ」
というのです。
良源が鏡の前に座り、深い瞑想状態に入ると
その姿は次第に変わり、ついには骨と皮ばかりの夜叉の姿、角大師となったのです。
弟子たちは師匠の変わりように恐れをなし、その姿を写すことができませんでした。
しかし、弟子の中でたった一人、その姿を書き写した者がいました。
生きながら地獄に行ったことのある明普(みょうふ)阿闍梨です。
良源はそれを見て満足し
「これで良い」
と版木を起こし、札を刷るように命じました。
そして
「一時も早く、これを民家に配布して、戸口に貼り付けるよう申しなさい。
この彫像のあるところ、邪魔は恐れて寄り付かないから、疫病はもとより、一切の厄災から逃れることができるであろう」
と弟子たちに伝えました。
そうして弟子たちが町民たちに御札を渡し、玄関に貼るように伝えたところ、病気にかかっていた人も全快し、疫病に罹らずにすむようになったそうです。
こうして疫病退散にご利益があるとして、角大師の護符が広まっていきました。
怒れる美坊主
イケメン僧侶だった良源に角大師伝説が生まれた背景には、良源自身に鬼の姿と重なる一面があったからです。
良源は比叡山のトップになりましたが、奈良には興福寺がありました。
比叡山と興福寺は
「南都北嶺(なんとほくれい)」
と呼ばれ、当時の宗教界の2大勢力でした。
南都北嶺には、多くの荘園が寄進されましたが、この2つの寺院は現在の八坂神社の前進である祇園社をどちらが配下に置くかで激しく争っていました。
このときの様子が「今昔物語集」の中に出てくるのですが、良源が祇園社の別当をつとめていた良算という僧侶を追い出そうとして呼びつけたところ、良算は良源の言葉に反抗します。
そのため良源は
「弥よ瞋て(いよいよいかて)」
という状態になったと書かれています。
現代風に言うと
「激おこぷんぷん丸」
状態ですね(^^)
ほかにも良源の死後、良源の霊が怒りを爆発させたという話も伝えられており、良源は怒りの人だったことが分かります。
こうしたエピソードから
良源(角大師)は疫病を払う力を持っている
という伝説が生まれたのではないでしょうか?
角大師が危ないと言われる理由
ネットで角大師と検索すると
「角大師 危ない」
というキーワードがヒットします。
なぜ角大師が危ないと言われるのでしょうか?
一番の理由は
角大師の護符に良源の「庶民を救いたい」という想い(念)が込められているから
ではないでしょうか?
良源が角大師となった伝説には、いくつかの脚色が加えられているかもしれませんが、良源の
疫病を退治し、庶民を救いたい
という願いは本物でした。
こうした良源の願いは、今もなおゼロ・ポイント・フィールド空間にあり、誰でもアクセス可能な状態です。
もしあなたが本当に疫病退散や願望成就を願うなら、角大師の護符を通じて、良源さんの想いにつながることができるでしょう。
そんな不思議な力を持つ角大師の護符なので、護符を貼るときの注意点を守らなかったり、粗末に取り扱ったりすると、ご利益が得られないばかりか、災いをもたらすかも知れません。
こうしたことから
「角大師は危ない」
と言われるようになったのかも知れません。
まとめ
今回は
「角大師が危ない」
と言われる理由について解説しました。
角大師の護符は良源さんの願いが込められた強力な護符です。
あなたも角大師の護符を玄関に貼って、願いを叶えてみてはいかがでしょうか?
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