三田市の歴史的建造物「忠魂堂」を見学してきました

普段は非公開となっている三田市の歴史的建造物「忠魂堂」が、2024年(令和6年)11月29日(金)から12月1日(日)までの3日間、一般公開されると聞き、これは見逃せないと思い足を運んできました。

忠魂堂とは

老朽化が進み、解体が決まった「忠魂堂」

忠魂堂は、三田市三田町にある戦没者慰霊のための施設で、日露戦争後、三田町出身の従軍者有志たちによって建設されました。

竣工は大正4年(1915年)5月19日。

当時の三田町の人々による寄付によって実現したもので、その志の高さがうかがえます。

建物内部には、戦没者の遺影が200名以上掲げられており、彼らを奉祀する場としての機能に加えて、公会堂としても使われていたそうです。

かつては町の重要な議題を「忠魂霊前」で討議することも期待されていたとのこと。

地域の精神的な支柱でもあったわけですね。


三田市内唯一の建築型慰霊施設

三田市内には、かつての旧町村ごとに忠魂碑などの慰霊施設がありますが、それらの多くは屋外に建てられた石碑や広場形式です。

建物として残る慰霊施設は、この忠魂堂ただ一つ。

まさに唯一無二の存在でした。

解体が決定された忠魂堂

老朽化が進み、解体が決まった「忠魂堂」

長年にわたり遺族会によって大切に護持されてきた忠魂堂ですが、老朽化が進み残念ながら2025年(令和7年)に解体されることが決まりました。

近年は瓦の落下など安全面の問題もあり、市が部分的に補修を続けてきたものの、維持費の問題や立地上の安全確保を優先する形で、遺族会と協議の末、やむなく解体に至ったそうです。

今回の一般公開は、そうした背景もあっての貴重な機会だったのです。

老朽化が進み、解体が決まった「忠魂堂」

建物の周囲はパイプで囲われており、すでに解体準備が進められているようでした。

老朽化が進み、解体が決まった「忠魂堂」

老朽化が進み、解体が決まった「忠魂堂」

100年以上の歴史を持つ貴重な建物が、こうして姿を消していくのは本当に残念です。

後世にその価値を伝える手立てがあれば、なんとか残してほしかったという思いがこみ上げます。

忠魂堂の外観と内部の様子

入口には、三田出身の男爵・九鬼隆一による額が掲げられており、非常に立派な佇まいです。

「盡忠報國」と書かれた額

中に入ると「盡忠報國(じんちゅうほうこく)」と書かれた額が掲げられていました。

左には「大正十一年五月 陸軍中将 仙波太郎」との銘が。

仙波太郎といえば、小説『坂の上の雲』にも登場する松山出身の元陸軍中将ではないでしょうか。

三田との具体的なつながりは分かりませんが、もしかすると訪問の折に揮毫されたのかもしれませんね。



「風霜凛」という書

さらに「風霜凛」という書も飾られており、凛とした空気の中に、どこか背筋が伸びるような気持ちになりました。

忠魂堂の壁に並ぶ戦没者の遺影

忠魂堂内部に飾られた、ずらりと並ぶ遺影写真。

200名を超える戦没者たちの顔が静かにこちらを見つめているようでした。

忠魂堂の壁に並ぶ戦没者の遺影

建物の静けさと相まって、当時の空気を感じ取れるような厳粛な雰囲気が漂っていました。

忠魂堂の壁に並ぶ戦没者の遺影

100年の時を紡いだ忠魂堂との別れに寄せて

忠魂堂の壁に並ぶ戦没者の遺影

100年前に建てられ、今もその記憶を伝えるこの忠魂堂。

この忠魂堂は、建築としての価値もさることながら、三田という町の歴史、人々の祈りやつながりを象徴する場所だったと思います。

それだけに、解体されてしまうのは本当に残念。

とはいえ、保存が難しい現実も理解できます。

せめて、こうして目に焼き付け、心に残しておくことで、少しでも次の世代につながれば──
そんな思いで忠魂堂を後にしました。


忠魂堂の基本情報

住 所:兵庫県三田市三田町37−2


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