【宝塚歌劇】切断事故で亡くなった香月弘美さんや慰霊碑についての解説

宝塚大劇場の隣にある宝塚音楽学校。

華やかな舞台を夢見る生徒たちが日夜稽古に励むその建物の前に、小さな石碑があるのをご存知でしょうか?

この石碑は、今から65年前、宝塚大劇場で起こった悲しい事故を追悼するため作られました。

今回は、華やかな宝塚の舞台裏で起こった痛ましい事故について、当時の新聞記事や写真を使って、ご説明します。

宝塚歌劇生徒胴体切断事故とは?

画像引用:1958年4月2日 朝日新聞大阪版 朝刊

1958年(昭和33年)4月1日

宝塚大劇場の舞台上で、一人のタカラジェンヌが亡くなりました。

彼女の名前は、香月弘美(かつき ひろみ)。

上演中に舞台のセリのシャフトに、着ていたドレスが巻き込まれ、胴体を真っ二つに切り裂かれるという不幸な事故に遭い、この世を去りました。

この時、彼女は21歳。

宝塚歌劇団の歴史上、舞台上で殉死した唯一のタカラジェンヌです。

この事件については、事故翌日の新聞記事で報道がされましたが、宝塚歌劇団の公式資料には一切掲載されていません。

タカラジェンヌが亡くなるという痛ましい事件にも関わらず、翌日には通常通り舞台は再開されました。

現在では、ちょっと考えられないですね。


宝塚歌劇生徒胴体切断事故当時の様子

画像引用:「宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて」

事故当時に上演されていたのは、花組「春の踊り、花の中の子供たち」でした。

事故が起こったのは、午後3時から始まった2回公演中の終盤18時25分頃。

「花の中の子供たち」26場の第12場、トランプの国、宮廷大広間の場面でした。

物語の大詰めであるこのシーンには、百二十名の出演者が総出で舞台に居並んでいました。


舞台の終盤、トランプの国の女王様の

「消えて失くなれーっ!」

というセリフとともに彼女は、親友であった相手役の松島三那子(40期生)と一緒に舞台に一番近い1号セリ(縦3メートル、横1メートル)に乗って、奈落へと沈んで行きました。

その時、悲劇が起こりました。

この時の様子を、元タカラジェンヌの岸香織さんが自著の中でこう述べています。

「キエテナクナレーッ」

トランプの国の女王サマの怒声が、二千五百人の観客で埋まった宝塚大劇場に、凜と響きわたった。

このセリフをきっかけにして、女王サマの逆鱗に触れたトランプの国の恋人たち(松島三那子、香月弘美)を乗せた一号迫りが、約束通り、ヒューンというシャフトの金属音と共に奈落へ沈んで行った。

いつものように。

と、次の瞬間、

舞台が激しく揺れ 「ギャーッ」というものすごい悲鳴が、まさに断末魔の 悲鳴が我々の耳に突き刺さったのだ。

引用:岸香織(著)「虹色の記憶」より


セリに乗って降りる途中、香月さんが着ていたドレスのすそが、沈んでいくセリのスクリューシャフトに巻き込まれたのです。

香月さんがこの日、着用していたドレスには、裾を広げるため幅2センチ、厚さ1ミリのごく薄い鋼製ベルトが、3箇所(腰まわり、ひざ、すそ)に輪状に付けられていました。

当時の宝塚大劇場のセリは、手動ではなく、電動式。

セリを動かすため、手動とは比べ物にならない、大きな力がシャフトに加わっていました。


香月さんは着用していたドレスもろとも、両足からセリ台のワクの鉄製ベルトと舞台を支える鉄製アングルの支柱の間に挟まれ、引きずり込まれたのです。

巻き込まれたドレスに付けられていたスチールベルトが、彼女の身体をキリキリと強烈な力で締め付けます。

「やめてー!」

という香月さんの叫び声に、何らかの異常を察知した舞台係スタッフ。

急いで動力のスイッチをオフにしましたが、時すでに遅し。


事故現場に駆け付けた現場スタッフ。

ヨロヨロと倒れてきた彼女の身体を受け止めた彼は、この時

「命に別状はない」

と思ったそうです。


しかし、彼が受け止めたのは、蒼白な顔をした彼女の上半身。

切断部は衣装ドレスで覆われていたため、すぐには死亡したことを認識できなかったのです。

隣のスチールシャフトに目を向けると、そこには香月さんの下半身の無惨な姿が。

ドレスの鋼製ベルトが彼女の上半身と下半身を真っ二つに切断し、即死状態でした。

享年21。

将来を嘱望されたタカラジェンヌの、あまりにも早すぎる死でした。


事故が発生したのは舞台下だったため、客席から直接事故現場を見ることはなかったようです。

しかし「キャーッ」という舞台の底から響き渡る悲痛な叫び声に、2,500名の観客も、ただ事ではない出来事が発生した事に気づきました。

事故と同時に阪急電鉄の社員が観客にお詫びをし、以後の公演は中止に。

しかし事故翌日からは、セリを使用しないように演出を一部変更し、公演は再開されたのです。


事故翌日のタカラジェンヌたち


痛ましい事故を目撃し、ショックを受けたジェンヌさんも多かったでしょう。

事故翌日の舞台ですが、タカラジェンヌの方々の多くは

「あんなひどい事故があったのだから、今日の公演は中止だろう」

と思ったそうです。


当然ですよね。

現在なら、生徒さんたちのメンタルケアのため専門家が派遣され、事故原因が解明されるまでは休演になるはずです。

しかし、当時は違いました。


事故の翌日、劇団から

「平常通り公演あり、遅れぬよう楽屋入りのこと」

という連絡が入ったのです。


本公演は、事故の5日前に始まったばかり。

公演終了まで1ヶ月近くあり、公演を中止するとなるとチケット代等で莫大な損失が劇団側に発生することになります。

損失を恐れた劇団関係者は、事故の原因解明・再発防止より営業再開を優先し、事故の翌日から通常通り舞台を再開させたのです。

まだ二十歳前後の若い女性たちがほとんどのタカラジェンヌの気持ちを全く無視した、当時の劇団側の対応には飽きれるばかり。


まだPTSDという言葉もなかった時代。

静まり返った三階の幹部部屋や大部屋で、彼女たちは泣きたい気持ちを堪えながら、ひたすら化粧をする手を動かしていました。

舞台は始まり、事故のあった第12場を迎えます。

それまで静かだった客席に、さざなみの様な声が起きると、舞台にいるジェンヌさんにもはっきり聞こえるようになりました。


「この場面、この場面だっ」


と堪えきれなくなった彼女たちは、やっとの思いで正面に向けていた顔をガックリを落とし、身を震わせて泣きじゃくったそうです。


なお事故の翌日以降、

「香月弘美さんと松島三那子さんが演じた役を、誰が演じたのか?」

については、当時出演していた岸香織さんによると、記憶の糸がプツンと切れたように同期の誰も覚えていないそうです。


事故当時の劇団関係者のコメント

香月弘美さんが亡くなった事故を受け、当時の劇団関係者のコメントをご紹介します。

まずは公演中の花組組長 打吹 美砂(うちぶき みさ)さんのコメントです。

「香月さんは日本舞踊の稽古場でよく見かけましたが、本当におとなしい、かわいい人でした。

一人だけのお嬢さんとかで、ご両親も力を入れておられた様子です。

なんといってお慰めしていいのか・・・」


事故当時、香月弘美さんは月組の生徒さんでした。

花と月。

別の組子さんとはいえ、舞台上で起きた事件に、打吹組長も大きな衝撃を受けた事は間違いないでしょう。


ちなみに香月さんが亡くなった時に所属していた月組の組長は「沖ゆき子」さんでした。(1953年に月組組長に就任、 1962年に退任。その後専科に異動。)

沖ゆき子さんを始めとする月組生たちの事故直後のコメントは見つかりませんでしたが、同じ舞台に立ち続けた彼女たちの心の傷は、より深かったに違いありません。


香月弘美さんが亡くなった事故の原因は?

ここでは、香月弘美さんが亡くなった事故の原因について解説します。

香月弘美さんが亡くなった原因となった1号セリは、大正13年の宝塚大劇場設立当時からあった一番古いもの。

事故の前年、劇場を大改装した際に、このセリも同時に改装されましたが、事故は起こっておらず、この時が初めて起こった事故でした。

事故のあった1号セリは、セリといっても1m20cm、3mの長方形の小さな板状のモノ。

タキシード姿の男役ならともかく、華やかなドレスを着た娘役には、小さすぎるセリと言えるでしょう。


しかも沈みゆくセリの隣には、直径10センチメートルの太いスクリューシャフトが剥き出しの状態で動いていました。

セリが上下動する際には、シャフトがかなりのスピードで回転するため、娘役が着るような幅の広いドレスが巻き込まれる可能性は、事故以前からあったはず。

それを放置した結果が、このような痛ましい事故につながってしまったのです。

このセリについては、春日野八千代さんも事故以前から危険を感じており、

「あのセリは、私たちがずっと前から非常に危険だと感じていました。

セリとはいっても狭い矩形の板で幅3メートル、縦が1.2メートルくらいしかなくて、裾の直径が1.3メートルもある衣装で乗らなければいけなのです。

いつシャフトに裾が巻き込まれないかと、本当にヒヤヒヤでした。

だからそれが影響して演技にも身が入りませんでした」

とおっしゃっていたそうです。


事故当日の午後8時30分から阪急電鉄の和田薫社長、小林米三専務らが事務所に駆けつけ、舞台装置改修業者の竹中工務店の幹部に対応策を求めましたが、事故翌日の2日からは通常通り舞台を再開することを決めたそうです。

現在なら、これほどの大事故が起これば、残りの公演期間はすべて中止、事故原因の徹底究明、再発防止策を図った上で公演再開となるでしょう。

結局、この事故に対してくだされた処分は、舞台装置の不十分な管理による過失致死として罰金5万円。

一人のタカラジェンヌの命を奪った事故の処分としては、余りに軽い処分に感じます。

今から65年前の出来事とはいえ、人命を軽視し、経営を優先させた、当時の劇団関係者には怒りすら感じます。


事故当時に公演されていた「春の踊り、花の中の子供たち」とは

画像引用:阪急文化アーカイブス

ここでは事故が起こった時に上演されていた「春の踊り、花の中の子供たち」について調べてみました。

公演期間は、昭和33年(1958年)3月27日~4月29日

花組公演で、お芝居(「淀君」)とショー(「春の踊り、花の中の子供たち」)の2本立てで上演されました。

公演時の花組トップスターは、淀かほるさん(昭和22年入団、33期生)。

相手役となる娘役は、夏 亜矢子さん(昭和30年入団、42期生)。

組長は、打吹美砂さん(昭和6年入団、21期生)でした。

「淀君」(8部)

大阪国際芸術祭参加作

原作 … 坪内逍遥 

脚色・演出 … 白井鐵造

画像引用:「宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて」

(あらすじ)

城は砲撃を受け、豊臣家の運命も風前の灯。

淀君(南 悠子)はついに狂乱する。

息子・秀頼(淀かほる)は苦悩のあまり、最後には母を刺し、自らも生命を絶つのだった。

坪内逍遥原作による大阪城の悲劇を詩情を込めてうたう白井鐵造の異色作。


「春の踊り、花の中の子供たち」(26場)

ー「百万人のこども博」協賛ー

作・演出:高木史朗

画像引用:「宝塚歌劇100年史 虹の橋 渡り続けて」

(あらすじ)

宝塚植物園で開催の「百万人のこども博」に協賛した、子供向け“春の踊り”。 

兄 (淀かほる) と妹 (夏 亜矢子) が童話の国で霊知のシンボル、パーニャの玉を探す。

各国童話の主人公のほか、現代の日本に自国の童話を、との作者の願いが生んだ美しく楽しい童話劇。


事故が起こったのは、「春の踊り、花の中の子供たち」の終盤。

子供向けの楽しい春の踊りが一転、一人のタカラジェンヌの命を奪う悲しい事故が起きてしまったのです。


香月弘美さんについて

ここでは宝塚大劇場の舞台上で亡くなった香月弘美さんについてご紹介します。

香月弘美さんは、神奈川県藤沢市片瀬出身。

本名は、小笠原 弘恵(おがさわら ひろえ)です。

ニックネームは、「ヒロエちゃん」。


昭和29年入団の41期生。

同期には、2023年3月に亡くなった元参議院議長の扇千景さんがいます。

入団時の席次は17番(51人中)。

月組の娘役として配属され、初舞台は昭和29年4月の星組公演「春の踊り」(2部40場)でした。

生年月日は、1936年(昭和11年)8月21日。

亡くなったのは、1958年(昭和32年)4月1日。


事故の際に共演していた松島三那子さん(40期生)は、湘南白百合学園小学部、中学部の同級生でした。

彼女の影響もあり、香月さんは湘南白百合学園高等学校を1年で中退し、宝塚音楽学校に入学しました。

事故が起こった時の舞台「春の踊り、花の中の子供たち」での松島三那子さんの相手役は、日夏有里さんでした。

香月さんが亡くなった日、本来なら彼女の出演予定はありませんでした。

しかし娘役である日夏有里さんが風邪で休演。

急遽、代役として香月弘美さんが呼ばれ、3月31日昼の部から舞台に上がることになったのです。

宝塚大劇場の舞台での親友との共演に喜ぶ香月弘美さん。

しかし、この時の彼女には、翌日に起こる悲劇を、まだ知る由もありませんでした。

香月弘美さんの葬儀・お墓・慰霊碑について

痛ましい事故の2日後、4月3日に彼女の下宿先で密葬が行われ、続く11日には宝塚音楽学校三階講堂で宝塚歌劇団葬が行われ、その後、遺骨は彼女の実家に送られました。

4月15日には東京都墨田区にある実家経営の工場敷地で葬儀が営まれ、団員関係者ら約380人が参列したそうです。

戒名は、香月院弘誓美恵大姉。

彼女のお墓は、東京都足立区伊興の東岳寺にあります。

彼女が亡くなった翌月5月20日には、旧宝塚音楽学校の校庭に慰霊碑が建立されました。

毎年4月1日になると、本科生が亡くなった香月さんの霊を慰めるため、献花を行っていたそうです。

音楽学校が武庫川沿いに移転された際、彼女の石碑も音楽学校駐車場内の桜の木の下に移されました。

事故のことを知る人も少なくなりましたが、今でも時折、劇団関係者により献花をされています。

石碑の表には、

「めになみだ こよいは月のなきものを 香ふさくらが うすあかりせり 白蓮」

という大正から昭和時代にかけて活躍した歌人 柳原白蓮が香月弘美の死を悼んで読んだ哀悼歌が刻字されています。


石碑の裏側には、楷書体で

「昭和三十三年四月一日 大劇場の舞台の上に逝く 香月弘美 享年二十一歳 施工 本藤昌宏」

という銘文が刻字されています。

香月弘美さんの石碑は、宝塚音楽学校の敷地内にありますが、音楽学校は関係者以外立ち入り禁止となっているため、一般の方は立ち入ることはできません。

しかし、宝塚大橋から武庫川に降りる階段を下ると、裏面からですが、彼女の石碑を拝むことができます。

香月弘美慰霊碑

住 所:兵庫県宝塚市武庫川町1−1(宝塚音楽学校敷地内)


香月弘美さんの歌劇団葬における追悼のことば

旧宝塚音楽学校 3階講堂

香月弘美さんの歌劇団葬は、昭和33年4月11日に旧宝塚音楽学校3階講堂でしめやかに営まれました。

ここでは歌劇団葬における劇団関係者の追悼のことばをご紹介します。

月組組長 沖ゆき子

「恋人よ我に帰れ」の踊り子役の香月弘美さん

四月一日、東京の家に帰っていた私は、弘美さんの死を伝える電話を聞いても、どうしても信じられませんでした。

「ひろえちゃん、傍にいたげられなくて御免なさいね」

すぐにかけつけたひろえちゃんのまるで蝋人形よりも美しい死に顔に向っていえたのはそれ切りでした。

いつか私が雨上りの道を歩いて着物をすっかりハネでよごした時、自分の着物を出してくれて、私のよごれをていねいに取ってくれたひろえちゃん、

めったに自分の着物の柄すらも覚えない私が、あの時貸してくれたひろえちゃんの物の柄だけははっきりと覚えているほど、それほど温かい気持を折にふれては見せてくれました。

私は月組の組長として、大切な大切な人様のお嬢さん方を大勢預かっている身の重圧をひしひしと感じ、自分はその力のないのをまたひしひしと感じて、これを機会に宝塚を退めたいとすら思いました。

五月に月組が「花の中の子供たち」を続演するに当って、内部からも外部からもその可否について数々の意見が起りました。

それをあえてやろうという陰には、ひろえちゃんの御両親が

「ひろえの霊を葬うためにも、是非しっかりやって下さい」

と仰言った言葉が月組全員を決心させたことです。


私は何もしてあげられなかったのをお詫びするとともに、ひろえちゃんの愛した宝塚の月組のためにも、頑張ってこの公演を成功させたい、それから二度とこんなことのない明るい健全な宝塚にしたいと及ばずながら今はそれのみを念じています。

ひろえちゃんも天国から力になってくれると信じます。


花組組長 打吹美砂

阪急友の会公演「明治の森」の町娘役の香月弘美さん

香月弘美さんとは組がちがいますので、お話したこととてありませんが、花柳先生のお宅へ日舞のお稽古に行った折、

「いつも若いのに熱心だな」

とその将来性のある娘役姿に他の組の人ながら楽しみにしていました。


そして退めた星宮真沙美さんにどこか面影の似た人としても印象に残っていました。


四月公演も、花組に応援に出てあの代役をするという時も

『代役をしますから、よろしくおねがいします』

とお部屋へ挨拶に来た香月さんに私は

『しっかりね』

といつも代役をする人にいう言葉を何気なく交わしたものでした。


それが最後になるなどとはー


五年前、同じ「春の踊り」に胸ふくらませ初舞台をふんだ弘美さんが、五とせ、めぐりきた桜咲く春の日に、あたら若い生命を失うなどとは誰が予測したでしょうか。

ほんとう悔やんでも悔みきれない思いがいたします。

けれど、私たちは、この尊い弘美さんの犠牲を無にすることなく、力の限り舞台をふむことが何よりの故人へのはなむけではないかと思っています。

弘美さん、天国にて安らかにお眠り下さい。


宝塚歌劇生徒胴体切断事故のまとめ

今回は、宝塚大劇場の舞台上で起こった痛ましい事故や亡くなった香月弘美さんについてご紹介しました。

この事故以降も、宝塚の舞台では時折、事故が発生しています。(和央ようかさんや初風緑さんの例)

宝塚歌劇団の関係者には、二度とこうした悲惨な事故を繰り返さないためにも、生徒さん一人ひとりを大切に思いやり、この事故の教訓を語り継いでほしいと思います。

宝塚歌劇についてはこちらでも紹介しています。

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